81歳の風俗嬢

 某スポーツ紙の記事用に、正確に数えたことはないけど、風俗嬢をおそらくもう3000

人以上は、取材しているかも知れない。高齢の風俗嬢もかなり取材している。

 風俗嬢がまだ30代、40代の時に取材して、もちろんもう辞めてしまった人も多いけど、

まだ頑張ってやっている人もいる。というより、他に働く寄辺もなし、年金もなしとい

う人が少なからずいて、ずっと未だに仕事に携わっているのだ。だから、70代、70代後

半ぐらいの風俗嬢はかなりいるのだ。これから先も、彼女たちの多くは、身体がもつ限

りこの仕事を続けて行かざるを得ないのだろう。多分、もう少しすれば、80代の風俗嬢

が珍しくなくなってくるのかも知れない。

 風俗嬢も高齢化していっているけど、以前は80代の風俗嬢となるとまだ珍しかった。

懇意にしていたライターから聞いた話では、80代の風俗嬢の取材をしたことがあって、

そこそこ需要はあったと聞いていた。その彼女、上下総入れ歯で、入れ歯を外しての

フェラがウリだったとのこと。普通のフェラよりいいって、マニアックな客が指名を

していたとのこと。

 その話を聞いてよりずっと後のことになるけど、私も、一人だけ、81歳という風俗

嬢を取材したことがある。鶯谷の熟女店だったのだけど、彼女は下だけが入れ歯、上

は残っていたんだけど、それでも下の入れ歯を外してのフェラがウケていたとのこと

だ。

 ただ、彼女に会う前、おそらくかなりの若造りの化粧をしているのだろうと思って

いた。だけど、取材場所の事務所に行ってみたら、まだ仕事前で支度中であったとは

いえ、これがぜんぜんノー化粧。髪の毛は腰ぐらいまで伸ばしているのはいいとして、

まるで染めてもないのか、白髪と黒いのが半々ぐらい。それも、何もつけてないのか、

まるでパサパサの髪の毛で、「えっ、これで客をとるの」って思っちゃったくらい。

顔もおそらくファンデーション塗ったりのかなりの若造りしてるんじゃないかと思い

きや、その時はノーメーク。それはいいとして、顔が、肌艶がないのは仕方ないとし

て、亀の甲羅みたいにひび割れみたいのがびっしり。

 でも話を聞いて、撮影をして(顔出しはしてない)、終わったら、「私、指名が入っ

ているので、これから出かけます」って出ていった。

 風俗といえば、かつてはセフティ―ネットになっていたけど、長い経済低迷期を経て、

お茶ひく嬢も珍しくなるなど、今はぜんぜん苦しくなっている。価格の低料金化、コロナ

禍前からだけど、店ごと客が激減して、潰れた店もかなり出てきてたし、12時~オープン

の嬢女デリヘルのママさんが朝清掃のバイトをしてから出勤しているなんて話も聞くよう

になっていた。

  

 80歳で、どこか雇ってくれる仕事もないだろうし、 生きていくためには風俗の仕事を

せざるを得ない女性が、これからかなり増えてくるのではないだろうか。風俗の仕事をや

れている限り、不本位だろうが元気でいるしかない。そういう意味では、ここでの元気な

高齢者という趣旨とは少し違ってしまうけど、それはともかくエールを送るつもりで書き

記しておきました。

 それにしても、高齢ではないけど、風俗にはシングルマザーさんとか、夫のDVから逃れ

て来た人とか、多くいる。かつてのバブルの頃の、フードルとか言われていた時代とは違

って今の風俗嬢は、みんな厳しい日々を送っている人がほとんどだ。もちろん、若い層で

はホストに入れあげたとかあるけど、ある程度の年齢以上の人は、ほとんどが仕方なく風

俗の仕事を始めてと言っていいだろう。

 そういえば、かつでは収入が足りなくて風俗に足を入れた看護婦さんが多かったけど、

今は、圧倒的に介護士が多い時代だ。

                       2024年3月31日

小林照幸著『熟年性革命報告』(平成12年刊3月刊、文春新書)

 かなり以前に刊行された本で、老人ホームでボランティアとして介護の手伝いを
したこともあるという、ノンフィクション作家が書いた本だ。題名からわかるよう
に、施設で遭遇したり聞いたりした性に関する話が綴られている。
 今もこの手の話はたくさん聞くし、老人の性に関した本もかなり刊行されている。
簡単に解決する問題ではないし、これからも答えなんかなく、絶えず問いかけ続け
られる問題ではあるはずだ。
 この問題に古い新しいはない。いつの時代だって個人差は大きいとはいえ、老人
に性欲はあったし、まして長寿社会になってこれからますます真剣に取り組まねば
ならない問題ですらあると思う。

 高齢での元気のもとの一つとして、よく性欲が大切とは言われている。そういう
意味ではこの本でも同じことが言われてはいるけど、あえて古いこの本を取り上げ
てみたのは、その中のエピソードが面白かったからだ。老人の性が大切どうこうよ
り、そのエピソードを記しておいたくて取り上げてみました。

  その一つ

 ご主人が早くに逝去してから、営んでいた飲食店を引き継ぎ、以来やり手女社長
としてレストランやスーパーなど手広く事業を拡大、栄光を誇るようになった。だ
が、70歳を過ぎて身体の衰えを意識するようになり、生涯現役を目指してはいたけ
ど75歳で脳梗塞で倒れ、やがてホームヘルパーの介助を受けてはいたけど第一線か
ら退き、80歳になる頃には車椅子の世話にならざるを得なくなって老人ホームに入
所してきた。
 ただ、お金に困ることはなかったし、プライドも高く、入所してからも身なり化
粧もばっちり、高価な装飾品をいつも身に着けているは、時に車で外食、月に1度
は美容院にもというマイペースな暮らしぶりだった。

 その彼女が、施設のカラオケ大会で同じ施設に入所している2人の男性と知り合
った。詳細は省くけど、その2人とやがて同衾するようになった。男たちはお互い
の存在を認識していた。
 やがてそのことが施設員に発覚し、施設長に呼び出されることになった。そこで
彼女が言った言葉は、妊娠をまったく気にしないセックスというものが、こんなに
気持ちいいものとは思わなかった、と。
 以下の文は、本書の37ページの言葉をそっくり引用させてもらったものだ。

 「強気には見えますけどね、私は死ぬのが怖い。こんなとこにいるんじゃ、いつ、
死んでもおかしくないでしょう。周りを見ても、寝たきりななったり、夜中に突然、
わけのわからないことを口走ったり、食事も自分でとれず手伝ってもらっている、
とか、みんなようやく生きている、という人たちばっかり。死んでいった人も実際
に見ているわけだしね。明日は我が身なんですよ。一回、一回がこれが最後かもし
れない、人生最後のセックスかもしれない、たいせつなものになっているの。気持
ちがいいに決まってるでしょ? 最後は人間らしく、死んでいきたい」

 その後、相手していた男2人がどちらが彼女を独占するか決闘となり、一人がか
なりの痛手を負う。その後の経緯など、詳しく書いている余裕はないけど、それで
1人とだけ付き合うようになったわけでもなく、施設内でも噂は広がっているし何
となく気まづくもなって、3人が疎遠になっていく。そしたらセックスがなくなっ
て元気もなくしちゃったのか、3人とも1年以内にみんな病死しちゃったんだって。
 

 その他にも、「死ぬ間際に見つけた初恋」とか、面白い、そして考えさせられる
エピソードなんかもある。もちろん、そういたエピソードだけではなく、老いてか
ら出てくるいろいろな問題についても真摯に向き合って書いている本ではありまし
た。

 ニクラス・ブレンボ―著、野中香方子訳『寿命ハック』(2022年12月刊、新潮新書)

 老化・アンチエージングの研究の進捗状況を知りたければ、入門書としてこの本をお薦めしたい。
 1995年オランダ生まれ、コペンハーゲン大学の分子生物学博士課程に在籍する若手の研究家(出版時点)だけど、デンマークでベストセラーになるや、あっという間に世界22ヶ国以上で翻訳されたという。

 実際、読んでみると、医学・科学系の知識は当たり前として、その幅広い知識、情報収集能力には圧倒された。プロローグに記してあった、20世紀初頭、サルの睾丸の小片を移植することで長寿が期待できると実践した医者、そしてそれが金持ちやセレブに受けて需要が上昇していったという話からして、ぐんぐん惹き込まれ始めて読むのをやめられなくなった。

 390年も生きるサメや若返りのチャンピオンともいうべきベニクラゲから、ハダカデバネズミ、1000年以上も枯れないで成長し続ける樹木まで、それが何故かと探っていく。もちろん、長寿と言われている地域、長寿遺伝子を持つ人々がいるというアメリカはインデアナ州の小さな町にまで足を運ぶ。
 もちろん、遺伝子研究とか医学・生物学他の老化・長寿の現在までの研究、途上の失敗とかも含めてフィールドは幅広い。「老化はプログラムされている」けど、それはどういうシステムになっているのか、それを打破する方法、研究はどこまで進んでいるかとか、丁寧に教えてくれる。
 細胞のゾンビ化、アポトーシス(細胞の自殺)、オートファジー(自食作用)から、細胞の死にかかわるテロメラの短縮はとめられないのか、ノーベル賞を受賞した中山教授のips細胞の可能性(これは、京都大学ps研究所・国際広報室編『ips細胞の研究』(東京書籍刊)に詳しい)とか、様々な角度から現在の研究状況を知ることが出来るのだ。先は長いけど、光はさしているのかもとの期待は持たせてくれる(人間の寿命は150年、それも老化しない身体を獲得してなんて話も出てきている。そのあたりは、デビット・A・シンクレア、マシュー・D・らブラント著、梶山あゆみ訳『LIFESPAN(ライフスパン)老いなき世界』(東洋経済新報社刊)に詳しく書いてあるし、他にも類似の本が続々出版され始めている)、
 抗酸化作用のあるサプリが逆に命を縮める可能性もあるとか、メルホルミン(糖尿病の薬)、アルギオチンミンZ(高血圧を抑える薬)とかの作用、アルツハイマー、ピロリ菌、HIV、癌などとの関係も記されていて、すごく参考になる。
 ホルミシス(身体が受けるストレス)が長寿にどのくらい役立つのかも参考になる。運動はもちろん、断食、そして献血についてなんかは「へえっ」て思ったものだ。
 エピローグには、こんなことも書いてあった。「老化の研究はまだ始まったばかりだが、これまで見てきたように、すでに多くの重要な進歩があった」「医学の進歩が続けば、いずれは老化を克服できるはずだ。問題は、いつそうなるか、である」

 最後に、これはよく言われていることではあるけど、第24章「物質より心」から引用させてもらうことにする。
「健康な食事、運動、新たな生活スタイルは、あなたを大きく前進させるだろう。だがそれだけでは、ゴールにたどり着けない」「長寿の人々は意義と目的について意識が高く、いくつになっても熱心に社会参加しているということだ」〈「毎日日曜日に孫のために料理をする」とか、「毎日階段を掃除する」といったささやかなものであったとしても〉
 「実年齢より若い気でいる人の方が長生きしやすいことを複数の研究が示している」とも。

80歳越え元気な医者・歯医者

 個人経営の医院・歯科医などでは、特に定年とかがあるわけではないから、高齢の先生がけっこう
頑張っているみたいだ。診察時間を減らしてはいる人もけど、ずっと患者さんを診てきている関係上、
そういう責任感、張りもあってか、元気な人はほんと元気に医者を続けている。

 もう亡くなってしまって、今は息子さんが継いでやっている、私もずっとお世話になっている歯科
院だけど、そこの先生は92歳まで現役で治療にあたっていた。かつては親子で診療にあたっていて、
先生が高齢になってからは、新規の患者さん、若い患者さんがその高齢の先生の方を指名することは
なくなっていたけど、古くからの馴染の年寄りなどは、その大先生の方でなくてはやだっていう人も
けっこういたのだ。
 中野の住宅街の、やや引っ込んだあたりにある歯科院で、人通りのない、付近の住民でも知らない
人がいるくらい目立たない場所にあったけど、親子ともすごく良心的な人で、治療代なんかは恐縮し
ちゃうくらい安かったし、、治療法も出来るだけ抜歯は避けた方がいいという考えで丁寧でもあった。
 息子さんの方も、今はいい年になって来たけど、歯科技工士もやっているし、近くの小学校の校医
もやっている。ただ、聞いたところによると、今の子供は、虫歯のある子は1クラスに1人いるかい
ないかぐらいで、そっちはもうボランティアみたいなものだと。
 それと余談にはなるけど、マイナ保険証の手続きはしてないみたいで、私もマイナカードは反対だ
からいいんだけど、でもほんとに旧保険証を無効にされたら困ることは困る。何とか廃止に持って行
きたいものだ。(マイナカードに賛同している人、無自覚な人は、まずは堤未果さんの『デジタル・
ファシズム』(NHK出版親書)をぜひ読んでもらいたい)

 私の連れ添いが世話になっている眼科医は、80歳を過ぎた女医さんが一人でやっている。名医との
評判で、今もいつも順番待ちになっているほで繁盛しているみたいだ。私は世話になったことはない
けど、頼まれて薬を受け取りに行ったことがあって、ちらっとその姿を見かけたことはある。元気そ
うだった。というより、贔屓目に見たせいか、溌剌として仕事に取り組んでいるように見えた。

 もう一人、近所の皮膚科の80歳は過ぎている医者。この医院も、診察時間は短めだし、休診日も週
2日はあったと思うけど、医者は一人で取り組んでいる個人経営の院だ。以前に一度だけお世話にな
ったことがある。元気溌剌とした人だった。
 ただ、この皮膚科に行ったのは、連れ添いの助言もあった。以前に連れ添いが救急で世話になった
ことがある国立病院で、私もついでみたいに、それと看護士さんが凄く優しい人だったので、見舞い
がてら皮膚科に行って診てもらったのだけど、診てくれたのは若い女医さんで、口の周りが皮が剥け
やすくなっていて赤く爛れたようになることもあったのだけど、原因は老人何とかだとのことだった。
 若い美人医者から老人と言われてちょっとショックだったんだけど、優しい人で、いくつか目立ち
始めた首下に出来た首イボ?(角質粒)を取れないかと聞いたら、簡単に取れますよって、専用の器
具を持ってきて、先っぽのノズルから何やら液が出てくるのでジュっとやってくれた。痛くも何とも
なく綺麗に取れた。
 そんなことがあったんだけど、その国立センターに行くには電車とバスを乗り継がなければならな
い。それもあって、薬が切れてまた同じ症状が出てきたときに億劫で近所のその皮膚科に行ってみる
ことにしたのだ。そして、まだ少し残っている首ネズミも取ってもらおうっと、その高齢の医者に取
れますかと聞いてみた。簡単に取れるよとのことだったので、頼んだのだけど、机の上に出してきた
のは、ブリキ製みたいなドライアイスが入っている缶。こりゃ何だろうと思っているうち、しばらく
すると、その高齢医者が、その中に突っ込んであったペンチみたいのを取り出した。で、私の身体に
それを近づけて、首ネズミを挟むやギュッと。千切れるまでのその何秒間が、痛かったこと痛かった
こと。ジュっと消し取っちゃう薬品仕様の器具なんてなくて、前近代的なペンチでの作業だったのね。
首ネズミ捕れるというのなら、同じと思っていた私がバカだった。古い病院は、設備も古いままだっ
たのね。もらった薬はどちらも同じものだったので、まあよしと思わねばとは思ったけど。でも、ちょ
びっと後悔した。
 その80歳過ぎの先生も、優しい人だったし、溌剌としていたし、元気もらえたから「まあ、よし」
と慰めてみたのでした。

日野原重明さんが偉大過ぎる足跡!

 日野原重明著「人生、こらからが本番 私の履歴書」(2006年4月刊、日本経済新聞社)
  同  著「だから医学は面白い 幻(ビジョン)を追い続けた私の軌跡」(2014年9月刊、日本医事新報社)

 今更、私が日野原先生についてどうこういうのはおこがましいとはわきまえている。それでも、このブログを始めようとして背中を押された人の一人だ。240冊以上あるという著作のなかで、上記2冊しか読んでいない私が著書紹介など、とんでもないと思えなくもないけど、それだけ勇気付けられたという意味で、ブログ著書紹介のページで真っ先に持ってきたいと思ったのは噓ではない。

 もともと、「日野原」という名前はよく耳にはしていたけど、聖路加国際病院院長・理事長だった人で、文化勲章をもらった人であり、時々TVで見掛けたことはあったけど、高齢でも第一線で活躍していた医師という程度ぐらいの知識しかなかった。でもこのブログを構想し始めた段階で、105歳まで第一線で活躍していた人のプロフィール、思いを知らずして先には進めないなと思って、とりあえず経歴がわかりそうな著作を選んで読んでみたのが、上記の2冊だったってわけだ。そして、すっかり心酔してしまった。もっと早くに著作に触れておきたかったなと思ったのも確かだ。

 「読者にとっては、私が元気で頑張っていることも励みになるようである」と書いてあったけど、まさにその通りと感じた。
 マルチン・ブーバーの著から「老いてもなにか新しいことを創(はじ)めることが老人に若さを与える」という言葉をひいていたけど、私の知っている80歳越えの人たちも、まさにそんな人達だった。

 「勇気を持って生きるのに年齢は関係ない」 
 「むしろ二度目の人生、三度目の人生のほうが充実する」 
 「年齢の殻をやぶって明るく元気に生きよう」

 日野原ブームを巻き起こしたきっかけとなった著書であり、そんな考え方が下地となって2001年にベストセラーになったという『生きかた上手』だけど、私はまだ読んではいない。でも、そういう考え方はずっと一貫しているから、急ぐ必要はなく、先にこのブログで取り上げてみようかと思った。
 年を取ると、「私利私欲がなくなる」。「取り組まねばならないこととか、なくなったわけではい。むしろ増えた」とか、引用しようと思えば幾らでも引っ張り出すことは出来る。
 でも、あまり長くなってもなんなので、簡単に目についた略歴だけ記して、終わりにしようと思う。あとは、直接著書に当たっていただきたいと思う。素晴らしい体験になるはずだ。

 時間にそって、略歴を記していくわけではない。私が知らなかったというのをピックアップして、勝手に書き留めておくだけではあります。

・神戸の牧師の子として生を受けたとか、三高時代とか、医者を志すきっかけとか、肺結核になったとかは省略。
・医師として駆け出しのころ、結核で亡くなった16歳の少女との経緯はその後の先生に少なからず影を与えたかも知れない。
・伝染病院での出来事、心房音の研究、その装置の製作、アメリカ留学とか、時系列に沿って書いて行けば、どこまで拾うかも含めて膨大な量になってしまうので、とりあえず頭に残っていることを中心に、そして年齢を重ねてからの実績を、それも気がついたのだけのものを記していきます。

・その前に一つ、1970年(昭和45年)のよど号ハイジャック事件。その飛行機に乗客として乗り合わせていたことは、大きな經驗だったと思う。
・「生活習慣病」の「習慣病」って、日野原先生がつけた名前だとは知らなかった。
・癌患者への精神的なサポートを提唱
・看護婦(その頃は「士」ではなく「婦」)大学院博士課程提唱。
・当時は、救急車に血圧計も・聴診器もなかった。使用するのは医者の領域。そうした不合理を改善していった。
・ホスピスの誕生にも大きく貢献
・音楽にも精通、自身もピアノを弾いたり作曲したり。84歳で自身が作った「全日本音楽療法連盟」の会長に。
・人間ドックの開設に貢献。
・インターン制度の改革・廃止に尽力。
・財団法人ライフ・プランニング・センターの創設。
・救急医療への貢献。
・緩和ケア病棟創設に貢献。
・2005年(平成17年)文化勲章受章ー「内科学」「医学教育」看護教育」「医療制度」ーこういったものにこれからも貢献していきたいと。
・89歳で心身ともに充実ー4つの財団の理事長
・「新老人の会」立ち上げ、「いのちの授業」への挑戦。
・98歳になってから俳句を始める。100歳になってからフェイスブックを始める。
・アンチエージングへの関心。
   その他、いろいろ、膨大です。

 「だから医学は面白い」の「あとがき」のなかに、102歳の時の忙しさ、そして車椅子が必要になった経緯を書いています。とにかくその年で、日本全国、ヨーロッパ、アメリカ世界各地を講演や会合で飛び回っていたのですから、そりゃ身体が悲鳴をあげたことでしょう。

 最後に、日野原先生が感銘を受けたというレオ・バスカーリア博士の「葉っぱのフレディ」。その原作をもとに先生は、1時間半の音楽劇に創り上げたという。その中の触りを。
 「葉っぱのフレディは死が怖かった。それはすべてが「無」になってしまうのではないかという恐怖である。この恐怖や疑問に答えるのが、すべての生命は「自然界」というより大きな生命体に還元れ、また新たな生命へと循環していくのだろうという考え方である」

そもそもこのサイトを立ち上げようとしたきっかけ

 もう何年前になるだろうか、仕事上で懇意になった某製薬会社(といっても社名には製薬とついているけど、実際はサプリメントの製造・販売が主で、薬を作っているわけではない)の、当時で80歳を超えていた会長と御茶ノ水方面から神田へ向かって一緒に歩いていた時のことだった。

 その会長は、新築の高層ビルの7階までが住居スペースになっている5階の一室に事務所を構えていた。普通は事務所貸しはしない住民しか入れないフロアで、コネで借りちゃったって自慢していたど、その事務所は御茶ノ水と神田との中間ぐらいの位置に建っていて、ある時、神田の私の会社に行ってみたいということで、会長の会社から神田にある私の小さな会社まで一緒に出掛けることになった。

 外を一緒に歩いたのは、その時が初めてだった。驚いたのは、会長が速足だったことだ。私もその頃は今よりもずっと速足の方で、人込みなんかを歩いているとほとんどの人を追い抜いちゃうほどだったんだけど、会長ときたら、その私が付いて行くのも苦労したほど速足だったのだ。80歳を過ぎていて、身長も160㎝チョイぐらいで私より背も低かったのにだ。

 その後も仕事の繋がりなどで、よく話をする機会があったけど、何しろ元気も元気。聞けば、肉類はアレルギーで一切口にしないって言っていた。よく喫茶店で逢うこともあって、その時一緒に軽く昼食を済ませてしまうこともあった。ある時、ハムとかは抜いておいてとウエイトレスに頼んでおいたんだけど、忘れてかどうかバーガーみたいなパンをそのまま持ってきたことがあった。それで会長、「いいよ」って受け取ったんだけど、食べ始める前にパンの具、中身を点検しはじめた。何せ肉類がちょっとでも入っているとダメなんだとか。それこそ胡麻粒ぐらいの大きさのものでも抜かないとダメみたいで、担念に調べて抜き取っていた。
 元気のもとは肉類って固定観念を待っていた私としては、肉類をまったく食べないのに、それほど会長が元気なことに、脅威すら感じたほどだったのだ。

 その会長も、90歳近くになって、会社を畳んだ。資本金5000万円の会社で、銀行借り入れはないから、代表になってくれないかと依頼があったけど、私はそんな器でもないし、失敗して責任も取れないし、関わっていられないほどやらなければならないこともあってお断りした。会長には息子さんが一人いて、独立して会社を持っていたけど、3人雇っていたのをある時から自分一人で運営するようになっていて、でもその息子さんにも断られたと言っていた。断るというより、息子さんはペースメーカーをつけているくらいで、身体を心配してのことだった。もちろん会長の方は同居していたし、それもわかっていたから、強く勧めたりはしなかった。というより一応は打診してみたといったところだったか。

 その会長、90歳になっても月1回はゴルフに行っていたという。凄いなって言ったら、俺の兄貴なんか月2回は今も行っているなんて言っていた。
 90歳になって運転免許を返納したとも言っていた。ただ、懇意にしていた10歳くらい年下の人と、先日車で日光に行ってきたんだけど、彼の運転が下手糞で、やっぱり免許返納したのは失敗だったなんてもね。

 そんな会長だったけど、それからすぐコロナ禍になってしまって、おとなしくせざるを得ない日々を送っていたようだ。コロナが5類になってから1度だけゴルフに行ったって言ってたけど、ただ、しばらくは家に籠っていたので、体力も落ちたか実際回ったのは2ランドぐらいで、あとはカートにほとんど乗っていただけだったらしい。
 この会長のことは仕事上の武勇伝とかも含めていろいろ聞いているけど、機会が合ったら後日、もっといろいろ書き記しておきたいとと思っている。今回は、その軽い前振りみたいなものです。何せこのブログを始めようと思ったきっかけが、この会長との出会いで、感心すると同時に元気・刺激をいっぱいもらったせいでもあったんで。

かつて80歳越えママさんがいた中野のスナック

 新宿のしょんべん横町とか、吉祥寺のハモニカ横町とか、
古い建物群の中に小さな飲み屋が密集した地帯は、取り壊さ
れたところもあれば全国にまだ残っているところもある。そ
ういうところには、けっこう高齢のママさんが元気に仕事を
してたりするものだ。

 ただ、狭い横町の通路を歩いたりすると、かつてはほとん
ど見られなかった光景が、あちこちで目にするようになって
もはや珍しくはなくなっている。そう、そういう猥雑な飲み
屋街の店でも、男にしろ女にしろ、外国人の店員さんがやた
ら目につくようになったことだ。外国人が経営している店な
のか、店員さんだけが外国人だけなのか。恐らくは両方ある
に違いない。そういう店からは、当然ながら高齢のママさん
の姿は消え去っている。

 中野にも北口の飲み屋通りをさらにもう一本奥へ入った方
の飲み屋街(昭和新道)なんかには、二階か三階建てが主の、
古い小さく狭い建物が連なっている飲み屋街がある。代替わ
りしたり改装したりの新しい店も散見されるようになったけ
ど、かなり年月の経った店も残っていて、けっこう年配・高
齢のママさんがいたりもするのだ。

 でも、前にもちょっと触れておいた、中野の高齢ママさん
がいたという店は、これも今はなくなってしまったんだけど、
ブロードウエイ脇の細い路地を入っていったちょっと怪しげ
な雰囲気の店が3~4軒並んでいる小路奥にあった。その辺
り一帯、高層マンションに建て替わってしまって、今はその
場所そのものがなくなってしまったけど、そこにあったスナ
ックの1軒にそのママさんはいた。着物姿で、その年齢ぐら
いの女性にしては、体格がよさそうだった。もちろん化粧は
しているけど、顔肌はすべやかだったし造作も品がある感じ
で悪くはなかった。

 ただ、そのママさんと、そう多く話をしたわけでもなかっ
た。そのスナックには2,3回しか行ったことはなかったん
だけど、だいたいがどこかで何人かと飲んできた後に、地元
である中野で一人で立ち寄っただけなので、夜中の12時前後
になることが多く、他に客がいたような記憶はなかった。
 よく喋ったのは、むしろそのスナックへ2人で交替で手伝
いに来ているという50歳前後の女性の方とだった。彼女は、
日本舞踊をやっていて、それも新しい流派を立ち上げたとい
う人だった。落語家とコラボして講演会を開いたり、活発に
活動していた人だ。近く依頼があって、3チャンネル(教育
ТV)の1時間番組にも出演するとのことだった。私の方も、
多少落語家との付き合いもあったして、いろいろ話は盛り上
がったし、そのスナックに一度ならず足を運んだのも、彼女
に興味を惹かれてだった。その分80才過ぎのママさんの方と
は、さしで話したりしたことあはあまりなかったような気が
する。

ママさんと彼女と、3人での会話のやりとりでは、さほど
印象に残った話はしなかったような気がする。もちろんこの
スナックの生い立ちとか経緯とか特徴とかは聞かせてはもら
ったんだけど。

 ただ、そのママさん、かつてどこかのクラブか何か知らな
いけど、唄うことをメインに仕事をしていたことがあったみ
たいだ。それで、その話になった時、助手の彼女が薦められ
てマイクを手にした。曲はシャンソンで、やや震える声だっ
たけど、80歳とは思えない、かなり声量もあったし確かに歌
もうまかった。
 何より元気な人だなって感じていたことは間違いない。

 ただそれだけのことだったんだけど、それからかなり月日
が経ってからのことだったけど、都築響一さんの、水売の高
齢ママさんを取材した本が出版されて(本棚を探したんだけ
ど、どこに行ったかわからなくなって、とりあえずネットで
検索してみた。確か「天国は水割りの味がする~東京スナッ
ク魅酒乱~」という本だったとは思うけど、中をを確かめて
ないので確証はない)、その中に紹介記事が掲載されていた
のを見つけた時は、ちょっとびっくりした。都築さんの広範
な取材フィールドに。
 そのスナックが取り壊されて、それでもうスナック経営は
やめてしまったんだと思うけど、それがなかったら、いつま
で元気に仕事していたんだろう。あのシャンソンの響きも、
いつまで聞くことが出来たんだろうなんて、つい思い返す日
々が続いたりもしていました。

80歳オーバーの飲み屋のママさん、元気だった頃の思い出②ー②

 私が何回か一人で足を運んだのは、80過ぎのママさんがいた店ではなく、多分70代ぐらいのママさんがやっていた店。ママさんによると、カウンターで7~8人入ればいっぱいになってしまうその店は、以前は日銀の御用達、日銀の人のみ受け入れてたいた店だったとのことだそうだ。日本橋方向の日銀からなら、神田駅に向かう途中にもなる。どういう経緯でそうなったのかは聞きそびれたけど、あまりいろいろな店を使ったり出来ない事情・縛りがあったか、ともかく以前は日銀の人専用の飲み屋にしていたとのことだった。

 私が行き出した頃になると、もう日銀の常連さんが頻繁に来るような店でもなくなってて、客足もやや少なくなっていたようだ。最初は、この店に私一人で来てみたけれど、このガード下一帯の飲み屋街の雰囲気が好きで、当時飲み仲間だった新聞社編集の連中を誘って2人でだったり何人かでだったり一緒に飲みに来るようになった。
 この店に来るのは、たいてい早くて2軒目、遅いと3軒目だったりしたので、夜遅くなることが多く、終電近くなることの方が多かった。それで、私は中野に住んでいるんだけど、ママさんは高円寺に一人で住んでいるとのこと、よく帰りが遅くなりそうになった時など、ホテルに入ってゆっくりお風呂に入りたいわねって、誘っていたのかどうかは知らないけど、よく言っていたものでした。
 そのママさんのいる店、ある時突然閉まっちゃっていた。ヨレヨレのガラス戸に張り紙がしてあって、「〇〇病院の〇〇室に入院してます」と書いてあった。癌だったようだ。それからおんぼろのガラスの引き戸の店の中から、灯が洩れてくることは一度もなかった。

 80代のママさんが営んでいた店は、その隣にあった。ある時、多分3~4人で飲みに行いた時だったか、ガード下に行ったらいつもの行きつけの店が満席で入れなくて、それじゃ仕方ないって隣の店を覗いて空いていたんで入ったのが最初だった。
 ママさんに年を聞くと80過ぎということで、盛り上がった。それ以降は、こっちの店をほとんど使うようになった。時々洋服をデザイン・製作していて、時に大きくはない首都圏周辺地のデパートなどの共同展示会に出品することもあると言っていた、
多分40代後半か50に届いているかぐらいの娘さんが、時々助っ人に来ていた。それとその日以降もよく顔を合わせるようになったのだけど、30代ぐらいの威勢のいいOLの二人組がいて、賑やかに盛り上がったりして楽しかったので、いつの間にかこっちの店ばかり使うようになってしまった。 今は亡くなった編集の一人はすごく面倒見のいい人でもあって、ママの娘さんの展示会に足を運んだとも言っていた。彼女の方も、それをすごく感謝していたし、編集者に対してもずっと年上だったんだけど、好意も持ったようだった。

 後年、今川小路が消滅してだいぶ経ってから、今度はもっと神田駅に近い方のガード下ではなく、高架下の飲み屋など連なっているところで、その娘さんの方が同じ屋号で店を出しているのを偶然発見した。扉のところに、ガード下から引っ越してきた旨が書いてある張り紙がしてあった。それで飲み仲間誰か一人誘ってその飲み屋に入ってみた。間違いなくその娘さんだった。亡くなった編集の人のことを伝えると、すごく残念がっていた。その編集の人、ガード下の時に一人で飲みに行ったりしたこともあるみたいで、男女の関係ということではなくかなり親しくなっていたようだ。
 それで、その編集の人の一周忌をその店でやることになった。編集の人の飲み仲間で、他の編集者や同新聞社だけど別部署の人やライターとか落語家とかで10数人ぐらいだったとう。

 ちなみにその亡くなった編集の人というのは、かつて自分で冒険や実験他、面白いことを設定してはコラムに書いていて絶大な人気を誇っていた人だ。小錦さんと相撲を取らせてもらって振り回されたり(彼自身はわりと痩せていた方)、競馬の厩舎に頼んで専用のプールで、馬と一緒に競走馬よろしくプールの中をぐるっと一周させてもらったりを書いていた。田舎で田んぼの中で案山子をやったらどうなるかって実験をしてみたところが小学生に石を投げられたとか、実用的なことからおバカっぽいことまでいろいろやったみたいだった。
 その頃はまだ私は付き合いがなかったんだけど、別の雑誌や新聞にそれとは別のコラムを書くようになって、それから付き合いださせてもらうようになった。夜中の12時集合で某ライターが運転で仙台に行って、1年に1回伊達政宗像を櫓をくんで洗うとかの行事に参加させてもらうって時に同行させてもらったり、江戸時代の釣り糸は馬のしっぽということで、現在の釣り糸と釣れ具合が違うかどうかの実験に熱海に誘われたり、かなりいろいろ付き合わせてもらってすごく楽しい思いをさせてもらった人だった。生前、なんかのパーティに出たら、面識などなかったのに手塚治虫さんが寄ってきて握手してくれって手を差し出されたこともあるなんても言っていた。声がデカい人で、新聞社の社員食堂で大声を出す人がいるんで咎めようと思ったら、それがその〇〇さんだったんで、これはしょうがないって引き下がっちゃった言わせるくらい誰もが認めるすごい人だった。
 
 さて、80代のママさんのことを書こうとしてまた横道に逸れた。続きは、またまた次回ってことで。
 追 ネットで調べていたら、日銀の御用達だった店の方の名前を出しているブログとかは見当たらなかったけど、80過ぎのママさんがいる方の店の名前は出して書いている人がいるんで、やっぱり店の名も出しちゃおうかと考え直しました。最初の日銀御用達だったという店の方が『歌家』、後から書いた、今も娘さんが経営している店が『まり世』。

80歳オーバーの飲み屋のママさん、元気だった頃の思い出②ー①

思い出の今川小路・元気バリバリだったママさんから認知症気味だったママさんまで

 JR東日本の耐震工事に伴って、2017年の9月に姿を消した今川小路飲み屋街。といっも、概ねカンター席ばかりの小さな飲み屋が15,6軒ガード下に連なっているだけのこじんまりとした、知らない人だと店に入るのが躊躇われるどころか、そのガード下を通るだけでも勇気がいそうな怪しげな飲み屋のかたまりだった。

 このガード下は薄暗くて、昼間だってほとんど人通りはない。山手線の内側、大手町方面からJR神田駅に向かうにしても、方向的にはOKなんだけど周辺の立地条件からそのガードに向かおうとすると、逆方向にかえって大廻りになったしまうので誰も使うことはない。

 山手線の外側の線路高架下沿いに歩いていけば、今川小路がガード下に認められるのだど、途中その先道が途切れている道路事情もあって、その線路沿いの道を歩いて駅に向かう人も少ない。という立地条件にあるせいか、神田周辺の会社に勤務している人でも、その今川小路を知らないという人はけっこう多かった。多かったというより、知っている人の方が少なかったといった方がいいくらいだった。

 大手町にある某新聞社の人達としょっちゅう神田周辺で飲み歩いていたけれど、彼等も私が案内するまではその飲み屋地帯を知らなかったみたいだ。

 私が今川小路を知ったのは、会社が神田にあって(今も神田で会社をやっているけど、その頃は今とは別の会社で雇われている身だった)、いろいろ知らない場所を歩いてみるのが好きで、ある時、特に目指す方向を決めているわけでもなくプラプラ歩いていたら、その今川小路ガード下に行き当たった。それで、中国返還前の香港の九龍城を外側から見たことあるけど、一瞬そんな雰囲気を思い出したくらい怪しげな一帯に写った。

 それで、その時は私一人、多少の冒険心もあってまずは電球はついているけど薄暗いガード下は避けて、ガード下より少しはみ出たところに建っていた少しは小奇麗な造りの1軒の飲み屋のガラス戸をあけた。そこもウンター席が7つ8つあるだけの店で、時間が夕方早かったせいでまだ私の他に客はいなかった。カウンターの向こうで客待ちしていたのは50代くらい女性。この店自体はこの辺では新しい方だという。

 私の勝手な想像ではあるんだけど、カウンター内の端の方に、天井の穴の空いたような入り口の2階に、まっすくに登っていくような梯子階段が着いていた。これは、もしかしてかつて売春防止法が出来る前の、ちょんの間があった建物のの名残りではないのかなんて思っちゃったくらい、怪しげな印象を受けた。
 昔、中野でここより広いテーブル席もあったけど、2階にちょんの間があった飲み屋に行ったことがある。一人で飲んで、飲み代がバカみたいに安かったんだけど、それは今度上で遊んでくださいみたいなことだったのだと思う。それっきり行かなかったけど、誰かにそういう話は聞いていた。

 話を戻そう、今川小路のその店で飲んだのは、あまり面白そうじゃなかったので、その時1回だけ。それから何日かして、また今川小路に一人で飲みに行った。

それから飲み仲間だった新聞社編集の連中を誘って、この今川小路に飲みに来るようになた。そこで出会ったのが80歳過ぎているママさんとかだ。でも、長くなったので、今回はこのへんで。
 80過ぎのママさんのこととかは、次回に記します。