そもそもこのサイトを立ち上げようとしたきっかけ

 もう何年前になるだろうか、仕事上で懇意になった某製薬会社(といっても社名には製薬とついているけど、実際はサプリメントの製造・販売が主で、薬を作っているわけではない)の、当時で80歳を超えていた会長と御茶ノ水方面から神田へ向かって一緒に歩いていた時のことだった。

 その会長は、新築の高層ビルの7階までが住居スペースになっている5階の一室に事務所を構えていた。普通は事務所貸しはしない住民しか入れないフロアで、コネで借りちゃったって自慢していたど、その事務所は御茶ノ水と神田との中間ぐらいの位置に建っていて、ある時、神田の私の会社に行ってみたいということで、会長の会社から神田にある私の小さな会社まで一緒に出掛けることになった。

 外を一緒に歩いたのは、その時が初めてだった。驚いたのは、会長が速足だったことだ。私もその頃は今よりもずっと速足の方で、人込みなんかを歩いているとほとんどの人を追い抜いちゃうほどだったんだけど、会長ときたら、その私が付いて行くのも苦労したほど速足だったのだ。80歳を過ぎていて、身長も160㎝チョイぐらいで私より背も低かったのにだ。

 その後も仕事の繋がりなどで、よく話をする機会があったけど、何しろ元気も元気。聞けば、肉類はアレルギーで一切口にしないって言っていた。よく喫茶店で逢うこともあって、その時一緒に軽く昼食を済ませてしまうこともあった。ある時、ハムとかは抜いておいてとウエイトレスに頼んでおいたんだけど、忘れてかどうかバーガーみたいなパンをそのまま持ってきたことがあった。それで会長、「いいよ」って受け取ったんだけど、食べ始める前にパンの具、中身を点検しはじめた。何せ肉類がちょっとでも入っているとダメなんだとか。それこそ胡麻粒ぐらいの大きさのものでも抜かないとダメみたいで、担念に調べて抜き取っていた。
 元気のもとは肉類って固定観念を待っていた私としては、肉類をまったく食べないのに、それほど会長が元気なことに、脅威すら感じたほどだったのだ。

 その会長も、90歳近くになって、会社を畳んだ。資本金5000万円の会社で、銀行借り入れはないから、代表になってくれないかと依頼があったけど、私はそんな器でもないし、失敗して責任も取れないし、関わっていられないほどやらなければならないこともあってお断りした。会長には息子さんが一人いて、独立して会社を持っていたけど、3人雇っていたのをある時から自分一人で運営するようになっていて、でもその息子さんにも断られたと言っていた。断るというより、息子さんはペースメーカーをつけているくらいで、身体を心配してのことだった。もちろん会長の方は同居していたし、それもわかっていたから、強く勧めたりはしなかった。というより一応は打診してみたといったところだったか。

 その会長、90歳になっても月1回はゴルフに行っていたという。凄いなって言ったら、俺の兄貴なんか月2回は今も行っているなんて言っていた。
 90歳になって運転免許を返納したとも言っていた。ただ、懇意にしていた10歳くらい年下の人と、先日車で日光に行ってきたんだけど、彼の運転が下手糞で、やっぱり免許返納したのは失敗だったなんてもね。

 そんな会長だったけど、それからすぐコロナ禍になってしまって、おとなしくせざるを得ない日々を送っていたようだ。コロナが5類になってから1度だけゴルフに行ったって言ってたけど、ただ、しばらくは家に籠っていたので、体力も落ちたか実際回ったのは2ランドぐらいで、あとはカートにほとんど乗っていただけだったらしい。
 この会長のことは仕事上の武勇伝とかも含めていろいろ聞いているけど、機会が合ったら後日、もっといろいろ書き記しておきたいとと思っている。今回は、その軽い前振りみたいなものです。何せこのブログを始めようと思ったきっかけが、この会長との出会いで、感心すると同時に元気・刺激をいっぱいもらったせいでもあったんで。

かつて80歳越えママさんがいた中野のスナック

 新宿のしょんべん横町とか、吉祥寺のハモニカ横町とか、
古い建物群の中に小さな飲み屋が密集した地帯は、取り壊さ
れたところもあれば全国にまだ残っているところもある。そ
ういうところには、けっこう高齢のママさんが元気に仕事を
してたりするものだ。

 ただ、狭い横町の通路を歩いたりすると、かつてはほとん
ど見られなかった光景が、あちこちで目にするようになって
もはや珍しくはなくなっている。そう、そういう猥雑な飲み
屋街の店でも、男にしろ女にしろ、外国人の店員さんがやた
ら目につくようになったことだ。外国人が経営している店な
のか、店員さんだけが外国人だけなのか。恐らくは両方ある
に違いない。そういう店からは、当然ながら高齢のママさん
の姿は消え去っている。

 中野にも北口の飲み屋通りをさらにもう一本奥へ入った方
の飲み屋街(昭和新道)なんかには、二階か三階建てが主の、
古い小さく狭い建物が連なっている飲み屋街がある。代替わ
りしたり改装したりの新しい店も散見されるようになったけ
ど、かなり年月の経った店も残っていて、けっこう年配・高
齢のママさんがいたりもするのだ。

 でも、前にもちょっと触れておいた、中野の高齢ママさん
がいたという店は、これも今はなくなってしまったんだけど、
ブロードウエイ脇の細い路地を入っていったちょっと怪しげ
な雰囲気の店が3~4軒並んでいる小路奥にあった。その辺
り一帯、高層マンションに建て替わってしまって、今はその
場所そのものがなくなってしまったけど、そこにあったスナ
ックの1軒にそのママさんはいた。着物姿で、その年齢ぐら
いの女性にしては、体格がよさそうだった。もちろん化粧は
しているけど、顔肌はすべやかだったし造作も品がある感じ
で悪くはなかった。

 ただ、そのママさんと、そう多く話をしたわけでもなかっ
た。そのスナックには2,3回しか行ったことはなかったん
だけど、だいたいがどこかで何人かと飲んできた後に、地元
である中野で一人で立ち寄っただけなので、夜中の12時前後
になることが多く、他に客がいたような記憶はなかった。
 よく喋ったのは、むしろそのスナックへ2人で交替で手伝
いに来ているという50歳前後の女性の方とだった。彼女は、
日本舞踊をやっていて、それも新しい流派を立ち上げたとい
う人だった。落語家とコラボして講演会を開いたり、活発に
活動していた人だ。近く依頼があって、3チャンネル(教育
ТV)の1時間番組にも出演するとのことだった。私の方も、
多少落語家との付き合いもあったして、いろいろ話は盛り上
がったし、そのスナックに一度ならず足を運んだのも、彼女
に興味を惹かれてだった。その分80才過ぎのママさんの方と
は、さしで話したりしたことあはあまりなかったような気が
する。

ママさんと彼女と、3人での会話のやりとりでは、さほど
印象に残った話はしなかったような気がする。もちろんこの
スナックの生い立ちとか経緯とか特徴とかは聞かせてはもら
ったんだけど。

 ただ、そのママさん、かつてどこかのクラブか何か知らな
いけど、唄うことをメインに仕事をしていたことがあったみ
たいだ。それで、その話になった時、助手の彼女が薦められ
てマイクを手にした。曲はシャンソンで、やや震える声だっ
たけど、80歳とは思えない、かなり声量もあったし確かに歌
もうまかった。
 何より元気な人だなって感じていたことは間違いない。

 ただそれだけのことだったんだけど、それからかなり月日
が経ってからのことだったけど、都築響一さんの、水売の高
齢ママさんを取材した本が出版されて(本棚を探したんだけ
ど、どこに行ったかわからなくなって、とりあえずネットで
検索してみた。確か「天国は水割りの味がする~東京スナッ
ク魅酒乱~」という本だったとは思うけど、中をを確かめて
ないので確証はない)、その中に紹介記事が掲載されていた
のを見つけた時は、ちょっとびっくりした。都築さんの広範
な取材フィールドに。
 そのスナックが取り壊されて、それでもうスナック経営は
やめてしまったんだと思うけど、それがなかったら、いつま
で元気に仕事していたんだろう。あのシャンソンの響きも、
いつまで聞くことが出来たんだろうなんて、つい思い返す日
々が続いたりもしていました。

80歳オーバーの飲み屋のママさん、元気だった頃の思い出②ー②

 私が何回か一人で足を運んだのは、80過ぎのママさんがいた店ではなく、多分70代ぐらいのママさんがやっていた店。ママさんによると、カウンターで7~8人入ればいっぱいになってしまうその店は、以前は日銀の御用達、日銀の人のみ受け入れてたいた店だったとのことだそうだ。日本橋方向の日銀からなら、神田駅に向かう途中にもなる。どういう経緯でそうなったのかは聞きそびれたけど、あまりいろいろな店を使ったり出来ない事情・縛りがあったか、ともかく以前は日銀の人専用の飲み屋にしていたとのことだった。

 私が行き出した頃になると、もう日銀の常連さんが頻繁に来るような店でもなくなってて、客足もやや少なくなっていたようだ。最初は、この店に私一人で来てみたけれど、このガード下一帯の飲み屋街の雰囲気が好きで、当時飲み仲間だった新聞社編集の連中を誘って2人でだったり何人かでだったり一緒に飲みに来るようになった。
 この店に来るのは、たいてい早くて2軒目、遅いと3軒目だったりしたので、夜遅くなることが多く、終電近くなることの方が多かった。それで、私は中野に住んでいるんだけど、ママさんは高円寺に一人で住んでいるとのこと、よく帰りが遅くなりそうになった時など、ホテルに入ってゆっくりお風呂に入りたいわねって、誘っていたのかどうかは知らないけど、よく言っていたものでした。
 そのママさんのいる店、ある時突然閉まっちゃっていた。ヨレヨレのガラス戸に張り紙がしてあって、「〇〇病院の〇〇室に入院してます」と書いてあった。癌だったようだ。それからおんぼろのガラスの引き戸の店の中から、灯が洩れてくることは一度もなかった。

 80代のママさんが営んでいた店は、その隣にあった。ある時、多分3~4人で飲みに行いた時だったか、ガード下に行ったらいつもの行きつけの店が満席で入れなくて、それじゃ仕方ないって隣の店を覗いて空いていたんで入ったのが最初だった。
 ママさんに年を聞くと80過ぎということで、盛り上がった。それ以降は、こっちの店をほとんど使うようになった。時々洋服をデザイン・製作していて、時に大きくはない首都圏周辺地のデパートなどの共同展示会に出品することもあると言っていた、
多分40代後半か50に届いているかぐらいの娘さんが、時々助っ人に来ていた。それとその日以降もよく顔を合わせるようになったのだけど、30代ぐらいの威勢のいいOLの二人組がいて、賑やかに盛り上がったりして楽しかったので、いつの間にかこっちの店ばかり使うようになってしまった。 今は亡くなった編集の一人はすごく面倒見のいい人でもあって、ママの娘さんの展示会に足を運んだとも言っていた。彼女の方も、それをすごく感謝していたし、編集者に対してもずっと年上だったんだけど、好意も持ったようだった。

 後年、今川小路が消滅してだいぶ経ってから、今度はもっと神田駅に近い方のガード下ではなく、高架下の飲み屋など連なっているところで、その娘さんの方が同じ屋号で店を出しているのを偶然発見した。扉のところに、ガード下から引っ越してきた旨が書いてある張り紙がしてあった。それで飲み仲間誰か一人誘ってその飲み屋に入ってみた。間違いなくその娘さんだった。亡くなった編集の人のことを伝えると、すごく残念がっていた。その編集の人、ガード下の時に一人で飲みに行ったりしたこともあるみたいで、男女の関係ということではなくかなり親しくなっていたようだ。
 それで、その編集の人の一周忌をその店でやることになった。編集の人の飲み仲間で、他の編集者や同新聞社だけど別部署の人やライターとか落語家とかで10数人ぐらいだったとう。

 ちなみにその亡くなった編集の人というのは、かつて自分で冒険や実験他、面白いことを設定してはコラムに書いていて絶大な人気を誇っていた人だ。小錦さんと相撲を取らせてもらって振り回されたり(彼自身はわりと痩せていた方)、競馬の厩舎に頼んで専用のプールで、馬と一緒に競走馬よろしくプールの中をぐるっと一周させてもらったりを書いていた。田舎で田んぼの中で案山子をやったらどうなるかって実験をしてみたところが小学生に石を投げられたとか、実用的なことからおバカっぽいことまでいろいろやったみたいだった。
 その頃はまだ私は付き合いがなかったんだけど、別の雑誌や新聞にそれとは別のコラムを書くようになって、それから付き合いださせてもらうようになった。夜中の12時集合で某ライターが運転で仙台に行って、1年に1回伊達政宗像を櫓をくんで洗うとかの行事に参加させてもらうって時に同行させてもらったり、江戸時代の釣り糸は馬のしっぽということで、現在の釣り糸と釣れ具合が違うかどうかの実験に熱海に誘われたり、かなりいろいろ付き合わせてもらってすごく楽しい思いをさせてもらった人だった。生前、なんかのパーティに出たら、面識などなかったのに手塚治虫さんが寄ってきて握手してくれって手を差し出されたこともあるなんても言っていた。声がデカい人で、新聞社の社員食堂で大声を出す人がいるんで咎めようと思ったら、それがその〇〇さんだったんで、これはしょうがないって引き下がっちゃった言わせるくらい誰もが認めるすごい人だった。
 
 さて、80代のママさんのことを書こうとしてまた横道に逸れた。続きは、またまた次回ってことで。
 追 ネットで調べていたら、日銀の御用達だった店の方の名前を出しているブログとかは見当たらなかったけど、80過ぎのママさんがいる方の店の名前は出して書いている人がいるんで、やっぱり店の名も出しちゃおうかと考え直しました。最初の日銀御用達だったという店の方が『歌家』、後から書いた、今も娘さんが経営している店が『まり世』。

80歳オーバーの飲み屋のママさん、元気だった頃の思い出②ー①

思い出の今川小路・元気バリバリだったママさんから認知症気味だったママさんまで

 JR東日本の耐震工事に伴って、2017年の9月に姿を消した今川小路飲み屋街。といっも、概ねカンター席ばかりの小さな飲み屋が15,6軒ガード下に連なっているだけのこじんまりとした、知らない人だと店に入るのが躊躇われるどころか、そのガード下を通るだけでも勇気がいそうな怪しげな飲み屋のかたまりだった。

 このガード下は薄暗くて、昼間だってほとんど人通りはない。山手線の内側、大手町方面からJR神田駅に向かうにしても、方向的にはOKなんだけど周辺の立地条件からそのガードに向かおうとすると、逆方向にかえって大廻りになったしまうので誰も使うことはない。

 山手線の外側の線路高架下沿いに歩いていけば、今川小路がガード下に認められるのだど、途中その先道が途切れている道路事情もあって、その線路沿いの道を歩いて駅に向かう人も少ない。という立地条件にあるせいか、神田周辺の会社に勤務している人でも、その今川小路を知らないという人はけっこう多かった。多かったというより、知っている人の方が少なかったといった方がいいくらいだった。

 大手町にある某新聞社の人達としょっちゅう神田周辺で飲み歩いていたけれど、彼等も私が案内するまではその飲み屋地帯を知らなかったみたいだ。

 私が今川小路を知ったのは、会社が神田にあって(今も神田で会社をやっているけど、その頃は今とは別の会社で雇われている身だった)、いろいろ知らない場所を歩いてみるのが好きで、ある時、特に目指す方向を決めているわけでもなくプラプラ歩いていたら、その今川小路ガード下に行き当たった。それで、中国返還前の香港の九龍城を外側から見たことあるけど、一瞬そんな雰囲気を思い出したくらい怪しげな一帯に写った。

 それで、その時は私一人、多少の冒険心もあってまずは電球はついているけど薄暗いガード下は避けて、ガード下より少しはみ出たところに建っていた少しは小奇麗な造りの1軒の飲み屋のガラス戸をあけた。そこもウンター席が7つ8つあるだけの店で、時間が夕方早かったせいでまだ私の他に客はいなかった。カウンターの向こうで客待ちしていたのは50代くらい女性。この店自体はこの辺では新しい方だという。

 私の勝手な想像ではあるんだけど、カウンター内の端の方に、天井の穴の空いたような入り口の2階に、まっすくに登っていくような梯子階段が着いていた。これは、もしかしてかつて売春防止法が出来る前の、ちょんの間があった建物のの名残りではないのかなんて思っちゃったくらい、怪しげな印象を受けた。
 昔、中野でここより広いテーブル席もあったけど、2階にちょんの間があった飲み屋に行ったことがある。一人で飲んで、飲み代がバカみたいに安かったんだけど、それは今度上で遊んでくださいみたいなことだったのだと思う。それっきり行かなかったけど、誰かにそういう話は聞いていた。

 話を戻そう、今川小路のその店で飲んだのは、あまり面白そうじゃなかったので、その時1回だけ。それから何日かして、また今川小路に一人で飲みに行った。

それから飲み仲間だった新聞社編集の連中を誘って、この今川小路に飲みに来るようになた。そこで出会ったのが80歳過ぎているママさんとかだ。でも、長くなったので、今回はこのへんで。
 80過ぎのママさんのこととかは、次回に記します。